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高台の罪と罰。

何故に世の馬鹿達はこうも想像通りの行動をするのだろうか。こういうとあたかも自分が村の高台に上がって、愚鈍な村民を見下すイメージがあるのだけれども、もちろん自分も村民なのであって、そこには決定的な差異はない。何かしら差異があるとしてもせいぜい高台に昇る意味を知っているくらいだ。高台に上ったところで自分は町人になるわけでもないし、まぁ、町人が偉いわけでもない。僕は飽くまでも村民であって、身分はわきまえている。しかしながら高台から見下ろす愚鈍な村民の振る舞いは、僕をいらだたせる。おそらくもっと高い高台があって、そこにまた違う村民がいるとしたら、僕のこの振る舞い事態がまたその村民をいらだたせるのだろうかと考えてみると、結局何がなんだかわからなくなる。そう考えると高台に昇る事自体が愚鈍な事であり、愚鈍な村民は高台に上がっている俺をみて「あー馬鹿がまたなにかやってるわ」くらいの感覚で俺を軽蔑しているかもしれない。「降りてきたらまた遊んでやってもいいかな」くらいの感覚なのかもしれない。結局俺は村民であるから、生活する場としては村以外どこにも無い。一方で村を憎み、一方で村に従属する。そこには選択の自由が黙殺されている。結局は村がないと生きていけないのである。しかしながら、ー 俺から見て - 愚鈍な振る舞いをしつつ村で生活していかなければならないのは、高台に上った経験からして耐えられないものであるが、一方でその現実はある種の救いにもなっている。「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損」という唄が昔あったが、今は「損」ではない。同じ阿呆なら「踊らねばならない」のである。俺は世の馬鹿達と同じように想像通りの行動をしつつ、一方で高台に上がって馬鹿達を蔑む。この不健康が生活が続くうちは、きっと世界は平和なのであろう。俺にはそのように見える。少なくとも、村から出ようとしない限りは。
by mementojo | 2004-09-28 09:47
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