真理

誰も生とは何かということは語れない。なぜなら、死の意味を見つけ出せないものに、生の意味づけは不可能であるからだ。生の最終目的地である死は、生の消滅によって達成される。生の消滅が行き着く先であるのならば、途中下車しても何も変わらないのではないか。今死ぬことと、後で死ぬことに、一体どれだけの違いがあるというのか。

人々は物語に生きている。
親子愛という物語。友情という物語。愛情という物語。国民という物語。家族という物語。法律という物語。生きる事をのみ目的として存立する物語に、人々は所属している。死ぬという事を本源的に捕らえて物語は作られない。宗教の輪廻転生や、天国も、所詮は生を物語る上で作られたに過ぎない。なぜ死ぬという事を目的として物語を作られないか。それは、そもそも死ぬという事を物語れないからである。死ぬことを目的としてしまえば、家族や友情や国家など、意味のないことになってしまい、生の座標を位置づけることは不可能になってしまう。

死とは絶対的な存在だ。絶対的であるからゆえ、生ある人々の多数はどうしても目を背けざるを得ない。生に絶望し死を望む人にアドバイスをする人は、一生懸命生の正義と、死の悪を語る。相手に物語を信じるように説得する。しかし、それはとても空しいものだ。物語を信じない人にとってこれほど意味のないものはない。しかし、意味はなくても、物語に生きる人は、説得し続けるしかない。生の物語を否定してしまえば、自分は存在することが出来なくなってしまうからだ。

ここで大切なのは、生の物語の無意味さに気づいた人のほうが、物語が絶対正しく当たり前のように自然的発生によるものだと認識している人より、より真理に近づいているという事である。物語否定論者は、生きていくために物語を信じるたり、信じるフリをすることが出来るようになっても、一方でその無意味さを必ず視野に入れて生きていく。物語信奉者は、一生死という問題を感知しない。しかし、生死に関する真理に物語否定論者が近づいたとしても、死が訪れたら否定論者も信奉者も同じになる。死が訪れしとき、ずべてが無になるだ。だから、結局いくら生のうちに真理に近づいたとしても、意味のないことかもしれない。意味のないことに対して、悩み、葛藤するのであれば、素直に物語を信じて、楽しんで生きればいいのかもしれまい。

しかし、意味のないことだとしても、真理に近づくという事は、何か人間として、楽しむという事や、生きるという事よりも、重大なことであると感じるのは僕だけなのだろうか。そして、そういう問題に対して、悩み、葛藤する人のほうが、ある意味人間らしいのではないか。自分の生死という問題を見ぬフリをして、一定のときが立てばいつか消え去さっていく。この一連の流れに一片の疑問もはさまないという事は、とても人間的だとは思えない。いっそ、機械的であると思える。自分の生死に対して疑問を発し、悩みながら、最後はその悩みの中に消え去っていくほうが、人間としての存在意義へ戦いとして人間的であると思われる。最後は無になってしまうのであれば、せめて無への挑戦を挑むのが生あるものの使命なのではないだろうか。
[PR]
by mementojo | 2005-06-06 04:46
高台の罪と罰。 >>